浦島太郎‐1
過去の記憶が一切ないということが如何ともし難いディスアドバンテージかというと必ずしもそうではない
少なくとも俺は、特に苦もなくこの町で生きている
*
アーケードの二階にある喫茶店に窓際に座り、ユウジは提出期限が迫ったレポートのため、思いついたことを紙にまとめていた。ユウジは癖で、考え事をしているとき、顎と肘を机につけ、手を頭の後ろで組むという格好になるのだが、それは公共の場所にいても変わらない。
「ちょっと、そのだらしない格好をなんとかしなさい。それに、テーブルの上もう少し片づけて」
頭上から声がした。慌ててテーブルの上に散乱した参考書やら紙やらを一か所にまとめる。
「はいどうぞ、ブレンドコーヒーと特製サンドイッチ」
「怒られたのかもしれないけど、記憶にございません」
そう言って、ユウジは笑った。
「…それに、この散らかりようは何? もう少し片づけられないの? ここはあなたの部屋じゃないんだよ?」
「考え事するときは仕方ないだろ?」
「仕方なくない。公共の場だってことも考えてなさい」
「以後気をつけます」
コーヒーを口に運んで一息ついた。テーブルの右端によせた紙を手に取って眺める。そこには図形や数式、英語がごちゃごちゃと書いてある。
「で、なにやってたのさ?」鏡は屈んで両腕を組むようにしてテーブルの上に乗せ、さらにその上に頭を乗せた。
「そんな恰好を労働中にするのはどうかと思うぞ」
「いいよ、人いないんだから」と言う鏡の言う通り、店にはユウジ以外の客がいないのだった。
「こんなに空いてるっけ? この時間」
「ユウジが厄病神なんだよ」上目づかいで鏡はユウジを見た。
「それは大変失礼したね。なるべく来ないようにするよ」
「で、なにやってんだっけ?」
ユウジの冗談は軽く無視された。彼が店に来るか来ないかは、鏡の興味対象にならないようだった。
「シミュレーション。どうやったらできるかなって、紙にいろいろ書いてたとこ」
「シミュレーションってなんの?」ぶっきらぼうに鏡が聞く。「どうやったら増えすぎた人口を、平和的方法を用いて抑制できるか、とか?」
「なんだそれ?」とつっこんで続ける。「なんでコンペイトウがあんな綺麗な形をとるか、だよ」
「なにそれ?」鏡が眉間に皺を寄せた。「面白くなさそう」
うるさい、と思ったが直接口には出さない。その変わりに
「癖になるぞ、皺。そのうち皺が取れなくなるな。若いうちから大変だな」
と言ってやった。すると言い終わった直後、すねに激痛が走った。「いっ!」と声が漏れる。足のつま先で蹴られたのだ。
「無表情で客を蹴るな」腰を曲げ、蹴られた場所を手で抑えながら抗議する。
「なんのことやら。言いがかりはやめてください」鏡は立ち上がってユウジを見下ろした。それは、あるいは蔑むといったほうが適切かもしれない。
「だいたいなんでそんな体勢からそんなに鋭い蹴りができる?」じわじわと響くような痛みに耐えながらユウジが聞くと、鏡は「鍛え方が違うの」と答えて去っていった。
客を蹴ったのは認めるんだな? と、ユウジは思った。
コンペイトウ形成過程のシミュレーションは、とりあえず二次元におけるモデルを仮定したところで一旦終了にした。家に帰ったらプログラムを組んで走らせてみなければならない。しかし、これでうまくいかないと間に合わないかもしれないな、と思えてきた。まあ、それならそれで仕方ない。たかだかレポートである。それに今日は病院に行かなきゃいけない日だった。レジに立つ鏡にお金を払い、ユウジは店を出た。
アーケードとアーケードを繋ぐ横断歩道の信号は、ユウジが渡る前に点滅を始めた。走る気にならず立ち止まる。もう信号が赤になろうというのに、向こう側から何人かが走ってきた。案の定道路の半分にも満たない距離を走ったところで信号は赤に変わり、車がやかましいクラクションを鳴らした。今も昔も変わらない光景だ。不快なクラクションを近くで聞かされる身としてはいい迷惑だ。狭い日本、そんなに急いでどこにいく? 二分くらい待っていると、法定速度なんか守るつもりのなさそうな車の群れが止まった。腕時計を見るともう三時を回っていた。
これは、急がないといけない。