浦島太郎‐2


「経過は順調そうですね」
 医者がカルテに書きこみながら言った。まだ若い先生だ。もしかしたら二十代かもしれない。
「病気の方はだいぶよくなったといって大丈夫でしょう」
「ありがとうございます」
「まあ、定期的に来るのは忘れないでください。あと、薬もちゃんと飲むことです」自然なものなのか営業用なのかよくわからない笑顔だった。後者の確率が高いかもしれないとユウジには思えた。
 その笑顔が少し崩れた。
「昔のことは思い出せませんか?」デキモノに触るように気を使った声だった。ユウジはなんとなくむっとする。
「ああ、全然思い出せませんね」
 小学生が解けない問題を目の前にして、それを寧ろ誇らしげに話すときのように、言った。こういう言い方が自然にできるのだから、昔の俺は馬鹿な子供だったに違いないと、ユウジは思った。
「いいんじゃないですかね。昔の記憶なんかないほうが。どうせ俺のこと覚えてるやつなんてほとんどいないでしょうし」
 そういえば、街を歩いてたら一度だけ中年のオヤジに声をかけられたことがあった。どうやら俺の知り合いらしかったが、そのときは人違いでしょうと言って無視したのだった。めんどうだった。なにせ今のユウジにとっては全く知らない人なのだ。そのへんにうようよいる悪質キャッチセールスと区別がつかないのだから、これが一番適切な対処法だと、ユウジは思う。
「まあ、今が大事なんですよ、きっと。それにほら、僕の場合はいろんなものがリセットできたってことで」
 医者は「そうですね、前向きな気持ちが大事です」みたいなことを言っていた。じゃあ記憶がどうこうとか聞くんじゃねえと言ってやろうかと思ったが胸に留めておいた。
 医者としては副作用の効果がどの程度のものなのか気になっているんだろう。ここまで強くでるのは珍しいらしいから、いい研究対象なのだろうと勝手に想像する。
 ユウジの最古の記憶は病院のベッドの上だ。個室だった。ちょうど女看護師が入ってきて、「気分はどうですか」と作り笑顔で話しかけてきたから、とりあえず「上々です」と答えておいた。続いて、
「あの…ここどこですか?」
 と聞いた。すると女は、読んで字の如く目を丸くして、驚きを隠そうともしなかった。今思い出しても可笑しい。なかなか拝める表情じゃなかった。あれは一生忘れないだろう。すぐに主治医の先生が呼ばれていろいろ検診を受けさせられた。結果、記憶喪失になったってこと以外は、まったく問題なかった。医者はそう言っていた。
 その後医者からいろいろ聞かされた。その中でユウジを最も驚かせたのは、彼が「ウラシマ」だということだろう。
 ご存じの通り、「ウラシマ」の語源は昔話の「浦島太郎」である。正式には「A種時間渡航者」。一般には、亜光速船に乗って一定期間宇宙を航海したことが原因で、地球や火星上に住む人間よりもゆっくりと歳を取る羽目になってしまった人間のことを指す。この効果を応用して、ある時点での医療では回復の困難な病気をわずらっている人間が、いってみれば未来に飛び立ち、未来の医療に一縷の望みを賭ける、ということが可能になる。それに賭けたのがユウジだったらしい。
ユウジにとってはまったくの驚きである。未来に自分の国が存在するのかも、もっといえば、地球があるのかどうかも保障できないのに、自分は無茶なことをする男だったらし。
 さて、ここで付記しておくと、この「ウラシマ」という言葉が使われるときは差別的な意味合いが含まれてることが多い。実際生活していて、ユウジも肌で感じるところだった。ただそれに関して彼は、自分が「ウラシマ」に対して優位に立つ人間だと思えるなら、勝手にそう思っていればよいと考えていた。そんなの相手にするのも馬鹿馬鹿しい。時間の無駄だった。
 ほかにも両親がもう亡くなっていることとかを聞かされた。しかし、ユウジにとってぴんとこくる話ではなかった。写真を見せられて、ああ確かに似ているかな、とは感じた。でも、それだけだ。友人が誰々とかいう俳優と似ているなと思うのに近い、ただの感想である。悲しくならないのがいいことなのか悪いことなのか判断がつかないが、昔のことを引きずってぐだぐだするのよりはよっぽどマシだろう、と思った。ユウジは
(どうせいつか人間は死ぬ)
 と思い、同時に
(命が惜しくて宇宙を飛んだウラシマタロウがいうことじゃないかもしれないが)
 と思った。
 その一連の騒動後は経過を見ると称して病院に軟禁され、そしてリハビリ施設に放り出された。そこで現在のテクノロジーから世界情勢の変化に至るまで一通りのことを勉強させられ、今度は世間に放りだされた。それからいろいろあって、今ここにいる。

 病院を出て、俺は近くの本屋に入った。そこで漫画を一冊立ち読みして出るころには、空はあかね色から紫色へと変わっており、帰宅するのか飲み屋にでもいくのか、スーツ姿のサラリーマンとOLがさっきよりも増えていた。平日、この通りは今の時間帯が一番混雑する。その中をユウジは、今日の夕飯はどうするかなと考えながら、とりあえず家と反対方向に歩きだした。そういえば久しくラーメンを食べていない。食べるのなら味噌ラーメンがいい。真赤な辛子味噌がレンゲに乗っかってるやつだ。確かこの近くにあった気がする。小さな路地を入ったところにあったはずだが、その路地がどこにあったか思い出せなかった。
記憶の糸を辿りながら、人の群れに交じって横断歩道を歩いていると、ジーンズの右ポケットが振動した。ケータイの相手は鏡だった。
「ちょうどよかった。一緒に飯食っていこうよ、鏡」
以前、俺をあのラーメン屋に連れていったのは彼女だった。

 鏡は今住んでるアパートの隣の住人である。最初あいさつにいったときは冬で、彼女はジーンズにセーターという格好だった。ショートカットが似合う、かわいい子だなっというのが最初の印象だ。ただ、表情は明らかに警戒していた。
 彼女の名前を初めて聞いたのは別の機会だった。それまでは苗字しか知らなかった。
「あたしカガミです」と彼女が言ったときは面食らってしまった。カガミのガにアクセントがきていたからだ。ガラスにアルミニウムや銀を蒸着させた方の鏡と同じアクセントである。いきなり何を言い出すんだろう、詩的な表現が好みなんだろうかと、ユウジは思った。
「名前です名前。あたしの名前。山野鏡です。」
 今度は「カ」にアクセントが置かれていた。最初にあいさつするとき「ガ」にアクセントを置くのは彼女なりのジョークらしかった。
 最初は大人しい子なのかと、ユウジは思っていた。しかしそれが全くの勘違いであるということに気づくまで、そう時間はかからなかった。ユウジの言葉でいえば、彼女は気性難のサラブレッドであり、しかもその意思の固さたるや鍛練に鍛練を重ねた日本刀のそれよりもよっぽど硬い。
「今日は焼き鳥が食べたい」
 鏡は会うなりそう言った。俺はラーメンが食べたい、とユウジが言えば
「いつでもいけるでしょう?」
 と強硬な姿勢で返した。
「焼き鳥だっていつでもいけるじゃないか」
「今日の入荷した鳥は今日しか食べれられないよ」
「今日作った麺だって同じだろう?」
「うっさい。焼鳥屋さんのお粥が食べたい」
「そば屋に行くとかつ丼が食べたくなるじゃん、ってか?」
「文句があるのか?」
 鏡の目は液体ヘリウムよりもよっぽど冷たかった。しばらく見つめられたら、凍傷を起こすに違いない。ユウジはため息を一つついて、
「一緒に行かなくていいからラーメン屋の場所だけあとで教えて」
 というのが精一杯だった。鏡は「おうっ!」と上機嫌に歩きだした。
 まったく、手に負えないじゃじゃ馬だった。

     
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