浦島太郎‐5
彼女は強がりだ。
絶対に涙なんか見せやしない。
だからこそ、俺は辛いのかもしれなかった。
俺の勝手な言い分だってことは、わかっているのだが
*
足に巨大アメーバが張り付いたみたいに残っている痛みに耐えながら、ユウジはすでに見失った鏡を捜した。ああ、くそ、一体どこに行ったんだ? こんな夜に一人で出歩くなとお前の母親は教えなかったのか? 父親は心配しなかったのか? 十字路に出て、ユウジは立ち止まった。どっちに行ったんだ? 駅の方か? いや、まて、落ちつけ。俺はポケットからケータイを取り出した。連絡が取れるかもしれない。あっちが受け取らなくても、俺が心配してるっていう意思表示くらいにはなるはずだ。……やっぱりだめだ。ああ、どうしてこんなことになってるんだ? というか俺は何をこんなに焦ってるんだ?
信号が青になった。立ち止まっていた数人が一斉に歩き出す。どこに行けばいいのか検討もつかず、ユウジはその様子を数秒眺めた。
不意に、脳裏に映像が浮かんだ。鏡が一人で寂しそうにベンチに座っていた。外灯は彼女から離れたところにあって、しかも不安定に揺れていて、彼女は今にも闇に融けてしまいそうだった。大昔に、どこかでこんな光景を見たことがあるような気がした。
映像が、切り替わった。信号が点滅し、数人が小走りに道路を横切っている。ユウジは走り出した。信号は赤になり、車がクラクションを鳴らしたが、耳に入らなった。
行先は決まっていた。
この近くに、公園といったら一つしかない。なんとなく、鏡は公園にいる気がした。公園で、一人で、座っているいるのだ。根拠は特にない。もしかしたらぐるっと回って家に帰っているかもしれない。どこかのお店に入っているかもしれない。それならそれでいい。しかし、今は走りたかった。走ることで胸にわだかまってるなにかを、その風で振り払うことができる気がした。久し振りの全力だった。
(地球時間で十数年振りだな、間違いなく。もしかするとそれ以上かな?)
街のはずれ、マンションが立ち並ぶ住宅街の一画にある小さな公園。そのベンチに鏡が座っていた。
そして、その目の前には男が一人いた。鏡は煙草も吸わないのに喫煙室に連れてこられたみたいに顔をしかめている。この距離でも肉眼で十分観測可能だ。俺は鏡のもとに歩いていく。
と次の瞬間、男が鏡の腕をつかんだ。さすがに驚いたのか鏡の表情に恐怖の色が混じる。
体が自然に動くっていうのは、こういうことを指すのだろう。
俺の鏡に
「なにすんだーーーーーーーー!」
ユウジの体は全力疾走の勢いのまま宙を舞い、理想的な軌道を描いて男に打点の高いドロップキックを食らわせた。男の吹っ飛び方及び着地後の滑り方といったら、お笑い芸人としては上出来な、いや上出来すぎて笑えないかもしれないほど、綺麗だった。男は顔面を地面にこすりつけたのである。
鏡といえば何が起きたかわけがわからない様子で、確かにユウジの登場の仕方はヒーローのそれより悪役に近い気がするから当然なのだが、瞬間的にはより一層の恐怖を味あわせてしまったかもしれない。ユウジの着地は完璧だった。ここだけはヒーローみたいだと自負する。やはりヒーローは格好のいいものでなければならない。
「ゆ…ユウジ…」安堵の表情で鏡がいった。
「ほれ、いくぞ。早くしろ」ユウジは鏡の手を引っ張って走り出した。なるべく鏡のペースに合わせたいところだが、少しの無理は我慢してもらうしかなかった。起き上がられて追われても厄介だ。起き上がらなくても厄介といえば厄介だが、まあそっちの心配は不要だろう。路上で寝たって死ぬような季節ではない。
このように必死に走っているときというのは、どう逃げるのがベストな選択かということを考える余裕が、普通ない。ベストではないかもしれないが少なくともベターであるという選択を、この場合はいつも使う道を行くという選択を脳は勝手に下すのだった。今、ユウジたちは大学のキャンパス内にいた。赤レンガの建物が左右にそびえ、目の前の外灯が緑の木の葉を浮かび上がらせている。男が追ってきたのかどうかはよくわからない。仮に追っているのだとしても、今のところ俺たちはあれの視界に入っていないようだった。遠くまできたし、見つかる可能性はかなり低いと見ていいだろう。
「はあ…はあ…」
お互いに息が上がっていた。立ち止まって息を整える。
「こんなに走ったの…高校のマラソン大会以来かも…」
鏡はそう言って歩きだした。ユウジも鏡の隣に並ぶ。
「お前を追って走って以来だな、俺の場合」
「なにそれ?」
「さっきから走りっぱなしってことだ」
「ああ、なーるほどー」
「俺たち酔っ払いだって知ってたか?」
「あれ? そうだっけ?」と鏡は笑った。
「…もうちょっとあと先考えて行動してくれ」
「んっ? うん。反省反省」
「反省してねえな」
「してますよ、反省」
俺はゆっくりと鼻から息を吐いた。
「まあいいけどさ」
このあたりは理学部の建物が並んでいる。赤レンガの研究棟の半分くらいの窓からは光が漏れているが、外は静かなものだった。少し離れたサークル棟の方に行けば賑やかかもしれない。
「なあ鏡」
「うん」
「特別な日ってなんだったんだ?」
「ああ、そのこと?」
鏡は俺を見上げた。
「聞きたい?」
「まあ…」と言ってから「聞いていいなら聞きたい」と言い直した。中途半端な意思表示はよくないと思った。
「えーとですねえ。まあ、今日は我がハハの命日だったのですよ」
鏡は夜空を見上げていた。
「あのお店に初めて連れてってくれたのはハハなのです。小学生のときだったな」
「小学生と焼き鳥屋にいったの?」
「うん。あり得ないよね。でもなんていうか、豪快な人だったんだよね。うーん。湿っぽい話になっちゃった?」
「そんなことはないんじゃないか?」
「…ありがと」
鏡のその言葉を最後に、二人の間に沈黙が横たわった。
(いかん…)
とユウジは思った。なにを話せばいいのかわからなくなった。かといって黙って歩き続けるのも気まずい。
「おいユウジ」といつの間にか歩みを止めていた鏡が俺を呼び止めた。
「うん?」
「疲れた。座ろう」
鏡は芝生の広場にあるベンチを指差した。
「ああ、そうだな」とベンチに向かって歩こうとすると
「手をつなげ」と鏡が手を差し出していた。
「なんでそんな恥ずかしいことを…」
「いいから握れ。連れて行け」
「どうして命令口調なんだよ?」
「いいから」
と言われるがまま、ユウジは手を握り、そのままベンチに座った。
「ねえユウジ」
「んっ?」
「記憶がなくて寂しいって思ったことある?」
「寂しいねえ。ないかな」
「どうして?」
「どうしてって言われてもなあ」
「宇宙から帰ってきてから、親がもう死んでるって言われたときは悲しくなかった?」
「うーん。ピンとこなかった」
「…そっか」
「強いてい言うなら、悲しいって思えないことが悲しかった」
「…」
「詩人だなあ、俺」
「最後のが余計」
「それは失礼」
「でもそれならいいのかなあ?」
「何が?」
「何だろうね?」
とぼけた笑いを見せた鏡だったが、直後に神妙な面持ちとなった。
「私はハハがいなくなって、やっぱり寂しかったな。それまで意識しなかったんだけど、血の繋がった人がいないっているのは結構じわじわくるんだよね」
「父親は?」
「うちは完全な母子家庭で、父親の顔みたことないんだよね。母子チチのこと、ハハはあんまりしゃべらなかったし、探そうって気にもならなかったんだなあ」
鏡の吐息の音が聞こえた。
「なんでこんなことしゃべってるんだろうね? 私は」
「なんでだろうな?」
「オウム返しかよ」
「でも普段よりかわいいぞ」
「…バカじゃないの?」
「否定しないけどな」
「バーカ、バーカ、ばあああああか」
子供が悪戯するときのような鏡の笑顔に、俺は思わず笑ってしまった。
「なによ?」
「いつもそのくらいの表情なら、百点あげてもいいんだけどな。普段は暴力と暴言によって六十点以上減点されてるからな」
「今のユウジの発言が赤点です」
「それは残念だね」
「精進しなさい」
「善処します」
鏡と繋がっている手を、少しだけ強く握りしめた。鏡がこちらを向いたらしいのが感じてとれる。
「俺がいるって」
「………」
正面に立つ、緑色の葉が茂る桜の木をじっとみつめる。手に汗をかいているのがわかった。
「安い言葉ね」
「うるさい」
「しかも人の目を見ない」
「見れるか」
「それに緊張しすぎ」
「…」
「でもまあ、ユウジにしては上出来かな?」
「それはどうも」
ユウジがそう言ったきり、あたりで鳴く虫の音以外、何も聞こえなくなった。
しばらくの間、二人は夏虫の音を聞く。
「…ユウジにもあたしがいるから」
鏡が絞り出した声は、泉に立った小さな波のように、ゆっくりと、静かに、ユウジに響いた。
「お前だって十分安い言葉じゃないか。しかも使い回し」
「あら? ユウジにはこれで十分じゃない?」
「ああ、そうですかそうですか」
「冗談よ。いじけないいじけない。
でもユウジ、せっかく私はユウジを向いてるのに、私のほう向かないの?」
「――向く前に言っておきたいことがあります」
「なに?」
「事あるごとに手をあげるのはやめてください。あと――」
「あと?」
「あんまり心配かけさせないでください。縛るつもりはないけど、さすがに今日みたいのは心配になります」
鏡は少しの間をおいた。
「善処します」
口元が緩んだ。なんだか可笑しかったのだ。
ユウジは鏡を見つめた。鏡もユウジを見つめている。二人の間に流れる時間は一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。やがて鏡が瞳を閉じた。ユウジも瞳を閉じて、顔をゆっくりと近づけ、唇を重ねた。
―――――――――――――
「これっ!」
顔を離して、目を開けて数秒、ユウジのみぞおちに手とうが飛んできた。
「そういうのはここでやることではない」
ユウジが鏡の胸にタッチしたことを、とがめてる。
「あーあ。ムードぶち壊し。やっぱりユウジは赤点」
ユウジとしてはそういうムードかと判断したわけなのだが、そのときに気づいたことがあった。
「なに?」
「いや、胸にちょっとごつっとしたものが…」
「ああ、はいはい。これよ」
鏡は服の中に手を突っ込み、胸のあたりから何かを取り出した。
これ。シルバーのアクセサリー。これハハの形見なんだよね。でもなんか壊れてるみたいでさ、それのせいもあるんだけどあんまりいいデザインだと思えないし。付けてるのちょっと恥ずかしくて。だからいっつもはお守りみたいにして持ってるんだけど、今日は付けてみたの。でもなんか全面に出すのはちょっとなあって感じでさ。でもこうしていると失くさないからいいかもしれないね。
ハハがチチの話しをしたことあんまりないんだけどさ、これくれたときは少し話してくれたんだよね。これハハとチチの思い出らしくって。チチもこれと似たの持ってるんだって。これとペアになってるんだってさ。
どうしたの? そんな怖い顔して。
ちょっとちょっと引っ張らないでよ。見たいんだったら貸してあげるよ。ほい。一体どうしたの?
………
へえ。ユウジもアクセサリー持ってたんだ。いっつもしてないじゃない? 何? 私と同じでお守りかなんか…
………
ず、ずいぶん似てるね
何震えてるの?
何してるの?
そんなに震えてたらどっかとんでっちゃうじゃない? だ…大事なものなんだから返して
嫌!
返して! 何震えてるの? 近づけなくていい! やめて! ちょっとユウジ! 返して! 返して!
「うそ…」と力なく呟く声が聞こえた。俺の手は信じられないくらい震えているのに、頭は信じられないくらい冴えていた。それなのに鏡の存在が蜃気楼のように遠くに浮かんでる。今聞こえた声だって、幻聴かもしれない。
俺の頭は今目の前に存在する映像に対してのみ、反応を示すようだった。
俺の目の前には一つのアクセサリーがある。
アクセサリーには言葉が刻まれている。
片方ずつではわからないけれども、二つ組み合わさることで意味を成すのだ。
俺はその言葉を知っている。
いつの時代のどこの言葉かはわからない。
それなのに、俺はこの言葉を読むことができた。
クスリでも打ったみたいに、頭が冴えている。
特別な呪文だ。
魔法の言葉だ。
映像がぼやけた。
誰かの笑いが聞こえた。
俺かもしれない。
そんなことは興味の対象ではなかった。
俺は、全てを思い出した
了