浦島太郎‐4
「今日は特別な日だ」と言っていた鏡はその特別な日に相応しく、しこたま飲み、しこたま食べた。無論、ユウジも自重しなかった。
結果、久し振りに明日の心配をしなければならないほど酔ってしまった。一方、アルコールの摂取量は同じかあるいはユウジ以上のはずの鏡はというと、顔がいつもより赤みがかっているもののいつもとそう大した変化は見られなく、時折例のお婆さん言葉が混じるくらいだった。それでさえ、ある程度飲んでしまえば毎度のことなのだから、明日になったらけろっとしているに違いなかった。賭けたっていいが、けろっとしているほうの倍率は1・0倍丁度だろうと、ユウジは思った。
「どうする? 次のお店行くかね?」と楽しそうに鏡はきいた。
「うーん。鏡が行くってなら行くけど…家に帰ってもいいんじゃない?」
飲むなら飲むで家で飲めばいいんじゃないかとも思った。正直次のお店に行っても何か食べようって気にも飲もうって気にもならない。
「おお、私も同意見じゃ」と鏡は元気よく手を挙げた。「ほめてつかわすぞ」とその手を俺に向かって振り下ろす。
「はいはい、それは大変光栄なことにございます。でも頼むから叩かないでくれ。結構痛いんだ」
と言った直後だった。それまで上機嫌だった鏡が、元気がなくなったように静かになった。少々もじもじしているようにも見える。何となく察しがついた。
「ちょっとそこのコンビニ行ってくる」
「ああ。俺ちょっと涼んでていい?」
「許す」
「御意」
たったったと鏡はコンビニに向かって駆けだした。トイレに誰も入っていないことを祈ってやろう。
改めて周囲を見渡すと、こんな時間でも結構人は歩いていた。今からなら終電に間に合うのかなと考えつつ、ユウジは煙草と携帯灰皿を取り出した。
煙草の煙をゆっくりと吸い込んでゆっくりと吐き出す。そういえばここは禁煙区域だったかもしれないというのが頭をよぎったが、もう吸ってしまったから仕方ない。一呼吸置いてまた煙草を口につける。夜空を見上げると予想していたよりは数多くの星を確認できた。そう遠くない過去に、俺がこの暗黒の大海にいたなんてなかなか信じられない。
(…本当に俺は宇宙にいたんだろうか?)
どうなんだろう、とユウジは考える。別に否定しようと思えばできなくはない。どうせ記憶がないのだから。しかしそうすることに何か意味があるとも思えないから、きっと宇宙にいたのだろう。
ポケットに手を突っ込むと少しひんやりとしたものが触れた。ユウジはそれを取り出す。シルバーのチェーンに故意に割られたような奇妙な形のアクセサリーのついたネックレスだ。俺が宇宙にいるときから持っていたものらしい。医者はそう言っていた。どこまで本当なのかは見当がつかないが、別に医者が嘘をつく理由もない。
リハビリ施設から出てきたとき、荷物といったらリュックサックに全部入ってしまう程度のものだった。一番高価なものといったらこのネックレスだろう。売ってしまって少しは金の足しにしようかとも考えたが、なんとなくやめた。今ではお守りみたいなものになっている。なんとなくだが、記憶をなくすより以前の俺に繋がるなにかがあるのだとすれば、これがきっかけになるような気がしていた。そんなこと考えるのは、実のところ、自分の過去に興味があるらしいってことなんだろうかと、ユウジは思った。
「あれ? ユウジ君じゃない?」
背後から声がした。聞きなれない声だ。振り返ると見たことのない女が立っていた。OLらしく黒のスーツを着ている。
「はあ」と気の抜けたような顔のユウジに、その女は不思議そうな顔をした。
「もしかして忘れちゃった? あたしカナ。ほら、宇宙船で一緒だった」
「ああ」とまるで思いだしたような声を上げてしまったが、もちろん思い出すわけない。今のは「本当に俺宇宙にいたんだ」という驚きの声である。
しかし「ああ」なんて言ってしまったのは失敗だった。今さらどちら様ですかなんて聞くのも変だ。かといって人違いですともいえない。この場を去ってしまいたかった。
「あーっと、えっと、そのー、ちょっと俺記憶を無くしてまして」
よりにもよって、酔ったユウジは一番めんどくさそうで一番間抜けな選択をしてしまった。「えっ」と怪訝そうな表情になったカナだったが、すぐにわけ知り顔になって、「そっかあ」と呟いた。
「それは大変だねえ」とカナが言った。ユウジとしては、別に大変だと思ったことはほとんどない。「今なにしてるの?」とカナが続けた。
「今は大学生やってます」
「へえ。勉強しなおしってところかあ。いいなあ、キャンパスライフって。人生の華だよねえ」
「はあ」
「私は今商社で働いてんの。足元見られることが結構多かったんだけどさ、そこの社長の息子が今まさに宇宙旅行中らしくてね。だから待遇いいほうなの。仕事も楽しいし」
「それはよかったですね」
月並みの、見方によっては冷たいと取られかねないような言葉しか見つからなかったが、道端でいきなり自己紹介されて感想求められているようなものなんだから、仕方ないだろうと、ユウジは自分に言い訳をした。
「そうねえ。そういえば彼女見つかった?」
「えっ? まあ彼女はいますが」
「そうじゃな…ええっと、ああ、そうか。うん、まあ、その方が幸せかもしれないね」
私はなんでも知ってるとうそぶく近所のおばちゃんみたいな口調だった。
(もういいかな? この場から離れても)
「あの…」
「そっかあ、じゃああの熱烈な愛の日々も忘れちゃったのかあ」
「はっ?」
「宇宙船という閉鎖された空間における三角関係。めくるめく愛憎劇。ああ待って、本当にあたしが好きなのはユウジなの」
「あの…ちょっと…」
カナは自分の世界に入ってしまったようで、先ほどとは目の色が違っていた。
「カナ、もういいだろう…。今まさに一つになろうとする二人。そこに割りこむタカシ。さらにミキコの登場、三角が四角になって五角になっていつのまにか団体円に…」
(もう放っておいていいかな? この人)
と思い、足が動きかけたところで、
「なんてね。冗談」
とカナが目の色を正常に戻して言った。
「でも私、ユウジ君のこと狙ってたんだぞ。ところが私、今はすでに彼がいるので残念でした」
とウインクした。
「えっと、とりあえず幸せならおめでとうございます」
「ふふふ。やっぱりかわいいなあ、ユウジ君は」と言った直後手首を返して腕時計を見た。「あっと、もうすぐ終電じゃん。じゃあね、ユウジ君。またね〜」
手を振りながら走りだすカナ。まるで台風だった。もう会うことはないだろうが、それよりも気になることがある。
「……………」
背後から噴水のように発散する殺気があるのだ。
危険を感じたユウジはとっさに動こうとしたが、ときすでに遅く、腹に走った痛みとともにその体は数メートル(大げさな表現でなく)飛んでいた。
「ユウジー!」
声の主は鏡だった。
「な、ナンデスカ?」ユウジは腹に走る痛みで泣きそうだった。パンパンの腹を思い切り蹴られたのだから、吐かないのが不思議なくらいだった。
「あんた何いちゃいちゃしてんのよ! あの人誰?」
さきほど登場したゴーゴン般若が日本刀持って鏡の背に立っていた。ユウジにはそう見えた。
「知らない人だよ」と正直に話した。
「知らない人といちゃいちゃしてたのかあんたは!」
正直が負の結果生んだことをユウジは感じた。
「それに…それに…三角がどうとか…なんとか…」
「なに? そんなとこ聞いてたの? いや、でもほら、冗談だってあの人言ってたじゃ…」
「この馬鹿野郎!」
恐らく駅に向かって走るカナにも聞こえたであろう罵声。ユウジにはゴーゴン般若が日本刀を振り下ろしたのが見えた。
「この不潔!」
との声と同時に、スネに電撃が走った。
「ってえ!」
ユウジはスネに走る大激痛に悶えながら、走り出した鏡を確認した。
「おい、どこいくんだよ! 家はそっちじゃないだろ!」
ああ、くそ! 俺は一つも悪くないぞ!