浦島太郎‐3
私は、一人ぼっちだった。
でも、それは昔の話。
今、私の隣にはユウジがいる。
だから、一人ぼっちじゃない。
鏡が言ったことはだいたい現実のものとなる。言霊とはよく言ったものだとユウジは思う。
「いらっしゃいませ。お客様何名様ですか?」
「二人です」と鏡は右手でピースサインを作った。小さな店ですぐ一杯になることが多いが、幸い今日はカウンター席が二つ空いていた。
「梅酒二つとネギマ二つ、あとつくねも二つね。梅酒はロックで。ネギマは塩でつくねはタレで」
と、席につくなりメニューも見ず鏡は言った。ユウジの意見は当然のように聞かない。少々不服なのをあえて顔に出しているユウジに気づいた鏡は口を開いた。
「頼みたいものがあったら頼んだらいいじゃない?」
「…そうですね。そのとおりです」
自由奔放・天真爛漫・ゴーイングマイウェイ。彼女にピッタリな言葉が次々と思い浮かんだ。
そんなことを考えていると「後ろから失礼します」との言葉とともに目の前に梅酒が置かれた。
「しかし急だなあ」
「何が?」鏡は梅酒に口をつけた。
「今日は特別な日だ、とか言ってなかったっけ?」
「そうだよ」
何が疑問なの? と言いたげな表情だ。
「特別な日に焼き鳥なの?」
「焼き鳥を食べたくなる特別な日なんだよ」
論理的当然の帰結だろう、と言いたげな表情だった。
「…まあいいけどさ。うまいから。この店にさすがにラーメンはないけど、我慢しよう」
ユウジは盛況な店内をぐるっと見渡した。壁に貼られたテレビではバラエティ番組らしきものが流れていた。お酒が回り出して声が大きくなってるオヤジや兄ちゃんや姉ちゃんたちのせいで音声は判別し難いものになっていて、存在意義そのものが疑われるところである。話が途切れたときのタネにはなるかもしれないってところか。
「そういえば唐揚げ頼んでないね」
とユウジになんらかの同意を求めるように言った鏡だったが、その割にユウジが意見を言うような短い時間すら全く与えず、店員に追加注文をした。もう好きにしてくれと思う。
鏡はかなりアルコールに強いほうだ。今だって焼き鳥がカウンターに乗る前に梅酒を飲みきり、すぐさま柚酒を注文した。鏡の母も強かったらしく、いわく遺伝らしい。ユウジといえば梅酒を半分くらい飲んだところで鏡にあげて、日本酒を注文した。鏡はユウジが甘い酒をあまり飲まないのを知っていて梅酒を二つ頼んだのである。
「おいしい」と鶏肉を噛みしめる鏡は顔がほころぶのを抑えられないようだった。グルメ番組のタレントが安い言葉を並べたてるのより、この顔の方がよっぽど説得力を持っている。ユウジも鶏肉をもぐもぐ噛む。確かにおいしかった。
「やっぱりおいしい」
目で同意を求める鏡。「そうだな」とだけ答えておく。食べながら、鏡が続けて話す。
「そういえばさ、あんたのアレ、なんとかしたほういいよ?」
「なんだよ? あんたのアレって? 下ネタ?」
どんっ、とテーブルの下から足蹴りが飛んできた。「ってえ」とユウジが反応するも、鏡は一切気にしない様子で続ける。
「ほら、考え事するとき、テーブルに頭つけて頭抱え込むようにしてんじゃん。アレ。絶対良くないよ。みっともないもん」
それは悪うございましたねと、心の中で毒づきながら、日本酒を少し飲んだ。少し酔うと鏡は説教臭くなるのだった。
「いやあ、私もさ、昔同じ癖あったんだけどさ。お母さんに怒られてね。それも何度も何度も。あんまり怒られるから、そのうちしなくなったんだけどね。でも、今のあんた見てるとお母さんが怒ったのよくわかるわ。だって、みっともないんだもん」
「わかったよ。善処しますよ」
「やる気ないな?」
「まあな」
ユウジの返事を聞いて、鏡はわざとため息をついた。
それから、しばらく経った。
「何か食べるかい、ユウジさんや」
鏡は酔っぱらうとときどき童話に出てくるお姫様とかお婆さんのような言葉使いになる。しかもしゃべりのテンポがえらくゆったりになる。
「うーん。なんだか少し酔っちゃったみたいだ」
ああ、それならとっくに気づいている、とユウジは心の中で呟いた。
「ユウジさんや。ちゃんと飲むんだよお?」
からみ酒はよくないぞ。アルコールハラスメントは厳禁だ。
「ちゃんと飲んでるよ」とお酒をちょと口にした。
「今日は特別な日なんだから付き合ってください!」
ゆったりとした口調だが、強めの主張である。しかし、語尾が「下さい」と、いつになく下手に出ている。よっぽど大切な「特別な日」なんだなと、ユウジは思った。
でも、特別な日ってなんだろう?
「なあ鏡…」
「ったくやっぱあれだよなあ!」
ユウジの言葉は一際大きく喚きだした小太り中年の声でかき消された。店内の視線がその中年に集まる。
「やっぱ、ウラシマってのは邪魔くせえよ」
小太り中年は茹で蛸のように顔を真赤にしている。酔いが回ってるからなのか何かに怒りを感じているからなのかもともとそういうふうにできているのかはユウジの知るところではなかったが、それはとても滑稽な画に見えた。
「あの死に損ないどもは俺らの邪魔ばっかしやがる。保障制度だかなんだか知らねえが職をあてがわれてよお。一般人が職なくて困ってるってときによお。そのくせ根性なしだからすぐやめちまって挙句犯罪を犯しやがる」
街頭に立つ演説者よろしく小太り中年は一気にまくし立てた。最後、「ゴミ以下の連中だ」とまで付け加えたから、さすがに店内が静まりかえった。演説者の隣に座っていた、そいつよりは若い部下らしい細身の眼鏡男が慌てていさめている。静かになってわかったのは、中年が急にわめきだした原因がテレビの内容であるらしいということだ。いつの間にか番組はバラエティからニュースに変わっており、その特集でいわゆる「ウラシマ」のことをやっているらしかった。
「真面目にやってるほうはいい迷惑だってんだよ。あれだろ? このあいだあった強盗殺人だって犯人はウラシマだったよな」
中年は同意を求めるように狭い店内を見渡した。それとユウジの目が合った。ユウジははあっ、とため息の一つでも返してやろうかと思ったが、それはやめた。そのうち静まるだろう。関わってハッピーな結末を得られる可能性が、南極でヤシが生育する可能性よりも見出せない、すなわち、限りなくゼロに近い。
だが、ユウジの隣に座る鏡は穏やかでなかった。目視せずとも、ほとばしるオーラみたいなものを感じざるを得なかった。ユウジは火事になっている家の大黒柱に縄で括りつけられてるような心持だった。目をつむってたってその熱さを否定することができないのである。しかも目を開けてみれば、そこにいるのは般若の面を被った女なのである。細見眼鏡は気づいたようだったが、小太り中年は自分に酔っているらしく心ここにあらずって感じで、つまりは自分の危機に気付いていないのだった。
(いや、これは俺にとっても非常にまずい)
とユウジは思った。この店に二度と来られなくなる可能性があるのだから。
ユウジはまあ押さえろと鏡の太ももに軽く手を乗せた。途端般若はユウジを睨んだ。
(こりゃあ般若じゃなくてゴーゴンだな)
と思った。
ユウジが細見眼鏡と「お互い大変ですね」とアイコンタクトをとっている間にも、その隣のゴーゴン般若の怒りのボルテージは上昇し続ける一方らしく、それがわかっているからこそ打つ手が見つからないユウジはいつ時限爆弾が爆発するか、もうカウントダウンに入ったか、なんて考えを巡らせている折、事態は急転した。
動いたのは店主だった。身長百八十は確実に超えていてる。普段実は温厚な悪役プロレスラーのような男である。店主は食べかけの焼き鳥が乗った皿を、小太り中年の前から取り上げた。これは何事だと店主を睨みつける小太り中年の様子は、蛇に飛びかかろうとするマングースのようだったが、みるみるうちに顔から威勢の良さが消えていったところを見ると、マングースのほうが勇猛果敢かもしれない。
「お客さんに迷惑です。お帰りください」
店主の低い声が店に響いた。これは誰でも気後れするかもしれない。そう思わせるだけの迫力があった。
「なっ何を!」と自らを鼓舞するように立ち上がって大きく声を張り上げる小太り中年だったが、無理をしているのがよく見てとれる。腰が少し引けているのだ。
「お帰えりください」
再び店主が言った。にらみ合いがしばらく続いた。そして再び、店主が口を開いた。
「迷惑です」
この店主に微動たりとも、変化は認められなかった。不動で中年を睨みつける。
「くっ」と何か言おうとして止めたのか、苦虫を噛んだような表情で店主から目を背け「いくぞ!」と細見眼鏡に一瞥をくれてそそくさと店を出ていった。ユウジは「覚えてろよ!」という捨てゼリフを期待したのだが、残念ながらそれはなかった。細見眼鏡のほうといえば、テーブルの上にお金を置いて「みなさんすいません」と低姿勢で扉に向かったが、何かを思い出したようで一度席に戻り、カバンを持って再び低姿勢で扉を開けた。二つ持っていたから、片方は小太り中年のカバンだろう。ユウジとは最後目が合い、「大変ですね」とアイコンタクトを取った。多分伝わったろう。そこでこの男がお金置いていったがお釣りはもらっていかなかったことにユウジは気づいた。もしかすると本来より少なめに置いていったのかもしれないが、おそらく前者だな、とユウジは思った。自分と同じような匂いを、彼から感じ取っていた。
「みなさん、失礼しました」と店主が店の人全員に向かって言った。突然のことに面くらい、すっかり酔いも冷めたという感じの人がほとんどで、どうしていいかわからないって感じだったが、私服の兄ちゃんが「オーケーオーケー」と陽気に答えたことで多少場が和んだ。各自旬のネタを話題に感想戦に入ったようで「すごかったなあ」とか「なんだったんだ?」とかいった声が聞こえた。一部のグループは勘定を済ませたようだったが、すぐに別のグループが入ってきたから、再びやかましくなるまでそう時間はかからなかった。
「かっこよかったね、店長さん」
鏡は新たに頼んだ杏酒を飲みながらうっとりした表情で話しだした。 お婆さん言葉でないところからすると、今の出来事で多少酔いが覚めたらしい。
「やっぱ男はこうでなくちゃね。ホント、かっこよかった。それに比べてユウジは何よ?」
(おっと、俺に飛び火したか)
面倒なことになった、とユウジは思った。鏡は一度説教を始めると、長い。
「太もも叩いたのはなに? 怒るのはやめとけってこと?」
(そうですその通り)
そう思っても、口に出せなかった。火に油を注ぐようなことは、誰だってしたくない。しかし、大炎上する前に、なんとか鎮火しなくてはならない。
「そんなんじゃダメでしょう? ここはむしろユウジがガツンと言ってやんなくちゃなんないところじゃない? 自分のこと言われてるようなものじゃない?」
「言わせたきゃ言わせておけばいいだろう。俺にとってはウラシマだとかそうでないとか、全く知ったこっちゃないことなんだし。そういうんだから、怒るだけ損だろ? なんていうか鏡が代わりに怒ってくれてるっていうんなら、うれしいんだけどさ。でも、そういうのは気にしなくていいんだよ」
なるべく言葉を選んで言ったつもりだった。鏡は要するに心配してくれているのだ、とユウジは解釈した。それはユウジにとって嬉しいものだったが、そんなことで怒っても仕方無いというのが彼の考えだった。下手をして鏡が怪我する心配のほうがよっぽど強い。
「…うん。それもそうか」
とめずらしく鏡は素直に引いた。